「今朝の印象的な夢のワンシーンを思い返そうとしたとき、それらは消えた。」

 
そこに意識を向けた瞬間に、確かにあったはずの風景、イメージ、あるいは色彩は、
わたしの追憶の行為に抗うように去っていってしまう。まるで正体を明かさない他人みたいだ。

人は、ひとりひとりが異なる環境・価値観で生きてきた存在、そして身近な心から信頼を寄せる
存在にいたっても、「理解したい」「知りたい」「共有したい」など同調の欲求を少なからず抱く。
それは既知の「差異」を補うことで、「知らない」という居心地の悪さを解消しようとしているからだろう。
しかし理解する過程で他者、あるいは自己と対峙することによって「わたし」が「わたし」を
「あなた」が「あなた」の”身体”と”記憶”を持つという当たり前の事実によって、その「差異」は
より明白になってしまうことに気付かせられる。また、そこから見えてくるのは他人のこころの在り処、
この絶対的に不可視な領域なのだ。

ではこの「差異」と「隔たり」は決して乗り越えられないものなのだろうか。

他者との関係を築く際に重要なのは、違いを受け入れながらも相手に対して
想像力を持って接する事が大切なのだとわたしは考えている。
そうすることでわたしの身体が例えそこにあっても、イメージを持って接すれば遠くにある切実な関係
(それは遠くにいる存在やわたしの中の遠い記憶などもそう)に届くのかもしれないという可能性を持つことができる。
想像・イメージするという一方的な行為のようだが、この始まりのきっかけは誰かや何処かにどうしても近づきたい
という願いのようなものであり、わたしの存在を徐々に弱め何時しか消えてしまっても辿り着きたい世界なのだ。

直接外の世界と関係している物理的世界、その関係性をなぞり映し出されるもうひとつのこころの世界。
この2つの世界は並走し、互いに浸透し合いながら時に陸続きの風景をつくる。
わたしは、その間を形を自由自在に変化させて大地に寄り沿い循環する水のように漂いながら、
未だ見たこともない風景を見てみたいと強く願う。


                                                                                                                                                                     2013年3月